旅をする木
星野道夫文春文庫

「人間の気持ちとは可笑しいものですね。どうしようもない些細な日常に左右されて一方で、風の感触や初夏の気配で、こんなにも豊かになれるのですから。人の心は、深くて、そして不思議なほど浅いのだと思います。きっと、その浅さで、人は生きていけるのでしょう。」(p.11)

「自分自身のアラスカの地図も少しずつ見えてきました。壮大な自然を内包するアラスカも、今、大きな過渡期を迎えています。きっと、人間がそうなのかもしれませんね。何も止まるものはないように、人の暮らしもアラスカの自然も変わってゆくでしょう。人間と自然との関わりとは、答えのない永遠のテーマなのだと思います。しかし、誰もがそれぞれのより良い暮らしを捜して生きています。」(p.14)

「そして、もう一度あの頃の自分に戻れないか、とも思ったのです。つまり、目の前からスーッとこれまでの地図が消え、磁石も羅針盤も見つからず、とにかく船だけは出さなければというあの頃の突き動かされるような熱い想いです。そして、たどり着くべき港さえわからない新しい旅です。もしかすると、誰の人生もさまざまな意味でそういうことなのかもしれませんね。」(p.15)

「もし、誰もが、人に教えたくないほど美しい秘密の場所をもっているとしたら、それはぼくにとって、〈赤い絶壁の入り江〉です。(中略)この入り江にはたくさんの思い出があるのです。そして、ここに来るたびに、ぼくは悠久な時間を想います。人間の日々の営みをしばし忘れさせる、喜びや悲しみとは関わりのない、もうひとつの大いなる時の流れです。」(p.19)

「秋は、こんなに美しいのに、なぜか人の気持ちを焦らせます。短い極北の夏があっという間に過ぎ去ってしまったからでしょうか。それとも、長く暗い冬がもうすぐそこまで来ているからでしょうか。初雪さえ降ってしまえば覚悟はでき、もう気持ちは落ち着くというのに……そしてぼくは、そんな秋の気配が好きです。無窮の彼方へ流れゆく時を、めぐる季節で確かに感じることができる。自然とは、なんと粋なはからいをするのだろうと思います。」(p.27)

カリブーの子供が寒風吹きすさぶ雪原で生み落とされるのも、一羽のベニヒワがマイナス五〇度の寒気の中でさえずるのも、そこに生命の持つ強さを感じます。けれども、自然はいつも、強さの裏に脆さを秘めています。そしてぼくが魅かれるのは、自然や生命のもつその脆さの方です。日々生きているということは、あたりまえのことではなくて、実は奇跡的なことのような気がします。つきつめてゆけば、今自分の心臓が、ドク、ドクと動いていることさえそうです。人がこの世に生まれてくることにしてもまた同じです。」(p.32~33)

「今、一人でルース氷河に来ています。ここは、マッキンレー山南面から流れる氷河のひとつで、アラスカ山脈の中でも最も美しい山域かもしれません。氷河そのものの美しさだけでなく、その流れをとりまく針峰群が圧倒的な迫力なのです。一枚岩のような花崗岩の絶壁、氷河が切れ落ちた断面の深い青さ、巨大なクレバスの造形……生き物がいるわけでもなく、花が咲いているわけでもない、ここに入ってくる者を拒絶するようなただ無機質な風景なのに、人間の気持ちを高みへと昇華させてゆくような不思議な力を持った世界です。」(p.34)

「三月とはいえ、ここは高山です。夜の氷河を渡る風の冷たさが身にしみます。けれどもシーンと静まり返った世界をすべってゆくスキーの音が何ともいえないのです。そしてこの広大な風景に少しずつ自分が属しているような気がしてくるのです。」(p.36)

「時折どこかで崩壊する雪崩の他は、動くものも、音もありません。(中略)いつかサハラを旅した友人が語っていた砂漠の”夜”も、こんなふうではなかったかと思います。砂と星だけの夜の世界が、人間に与える不思議な力の話でした。きっと、情報があふれるような世の中で生きているぼくたちは、そんな世界が存在していることも忘れてしまっているのでしょうね。だから、こんな場所に突然放り出されると、一体どうしていいのかうろたえてしまうのかもしれません。けれどもしばらくそこでじっとしていると、情報がきわめて少ない世界が持つ豊かさを少しずつ取り戻してきます。それは、一つの力というか、ぼくたちが忘れてしまっていた想像力のようなものです。」(p.36〜37)

「人が暮らしている風景はいつも魅きつけられます。」(p.40)

「ただ、南アフリカは本当に遠い世界だったのに、こんなに速く来てしまったことがなかなか納得いきません。身体も気持ちもついてこないのです。旅をするスピード感というのでしょうか。窓ガラスから南アフリカ大陸を見下ろしている興奮とは裏腹に、正直な気持ち、不安さえ感じてしまいます。世界とは、無限の広がりを持った抽象的な言葉だったのに、現実の感覚でとらえられてしまう不安です。地球とか、人類という壮大な概念が、有限なものに感じられてしまうどうしていいかわからない淋しさに似ています。二十一世紀を迎えようとしているのに、何をばかなことを考えているんだと言われそうですが、どうしてもぬぐいきれない気持ちです。」(p.41)

「アルドウはすがすがしく、どこか哲学的で、何とも言えぬ可笑しさがありました。旅が始まる前、全員が自己紹介をしたときのアルドウの言葉が心に残っています。『コロンビアの自然を撮っています。皆さん、コロンビアと聞くと、麻薬や犯罪のメッカを思い浮かべるだろうけど、それはちょっと悲しいです……国は、自然保護に力を入れる余裕はないけれど、何とか写真を撮り続けることによってアマゾンの自然や人の暮らしを守ってゆきたい……あ、それからぼくはロッククライミングをやります。垂直の岸壁を登ってゆくのです。うまく説明できませんが、それは趣味ではなくて、自分にとっては信仰に近いものです。どうぞよろしく。』」(p.44〜45)

「人と出会い、その人間を好きになればなるほど、風景は広がりと深さをもってきます。やはり世界は、無限の広がりを内包していると思いたいものです。」(p.45)

「出口が八方ふさがりのような気がしてしまう状況の中で、人々が必死によりよい方向を捜してゆこうとする姿にはいつも打たれます。」(p.50)

「遭難現場でTの母親と会った。子どもの頃から世話になっているぼくにとって、彼女は自分の母親のようでもあった。変わり果てたTを見つめ、涙さえ見せなかった。そればかりか、”あの子のぶんまで生きてほしい”と優しく微笑みながら言った。立場が逆転し、しきりにぼくが励まされていた。Tの身体もピッケルも無残に壊れてしまったのに、なぜかカメラだけは無傷だった。今考えると、その出来事は自分の青春にひとつのピリオドを打ったように思う。ぼくは、Tの死からひたすら確かな結論を捜していた。それがつかめないと前へ進めなかった。一年がたち、ある時ふっとその答えが見つかった。何でもないことだった。それは、「好きなことをやっていこう」という強い思いだった。Tの死は、めぐりめぐって、今生きているという実感をぼくに与えてくれた。気がつくと、遭難現場でTの母親に言われた言葉に帰っていた。」(p.80〜81)

「Tが死ななくとも、ぼくはおそらくアラスカに行っただろう。しかし、これほど強い思いで対象に関われただろうか。自分だけではない。それは彼をとりまく幾人かの人生を大きく変えていった。かけがえのない者の死は、多くの場合、残されたものにあるパワーを与えてゆく。」(p.82)
「僕はドンが好きだった。どこか、ひとつの人生を降りてしまった者がもつ、ある優しさがあった。ぼくたちは本当にたくさんの風景を一緒に見てきたものだった。」(p.109)

「離陸の失敗は、一匹狼のドンにとって、大きな経済的負担をもたらすのかもしれない。しかし、無事に飛んでいれば、今ぼくたちはここにいない。『ギフト(贈り物)だな……』と、ドンが言った。あたりが少しずつざわめいてきた。やがてぼくたちは、金色に光るワタスゲの海の中で、数千頭のカリブーの群に囲まれていった。」(p.111)

「アラスカの自然を旅していると、たとえ出会わなくても、いつもどこかにクマの存在を意識する。今の世の中でそれはなんと贅沢なことなのだろう。クマの存在が、人間が忘れている生物としての緊張感を呼び起こしてくれるからだ。もしこの土地からクマの姿が消え、野営の夜、何も恐れずに眠ることができたなら、それはなんとつまらぬ自然なのだろう。」(p.114)

「すべての生命は無窮の彼方へ旅を続けている、そして、星さえも同じ場所にとどまってはいない。」(p.119〜120)

「今でなくていい。日本に帰って、あわただしい日々の暮らしに戻り、ルース氷河のことなど忘れてしまってもいい。が、五年後、十年後に、そのことを知りたいと思う。ひとつの体験が、その人間の中で熟し、何かを形作るまでには、少し時間が必要な気がするからだ。」(p.124)

「子どもの頃に見た風景が、ずっと心の中に残ることがある。いつか大人になり、さまざまな人生の岐路に立った時、人の言葉ではなく、いつか見た風景に励まされたり勇気を与えられたりすることがきっとあるような気がする。(p.125)

「『東京での仕事は忙しかったけれど、本当に行って良かった。何が良かったかって? それはね、私が東京であわただしく働いている時、その同じ瞬間、もしかするとアラスカの海でクジラが飛び上がっているかもしれない、それを知ったこと……(中略)』ぼくたちが毎日を生きている同じ瞬間、もうひとつの時間が、確実に、ゆったりと流れている。日々の暮らしの中で、心の片隅にそのことを意識できるかどうか、それは、天と地の差ほど大きい。」(p.130〜131)

「しばらくカリブーの話をした後、ぼくは古い写真集をとりだし、これまでのいきさつを彼に話し始めていた。ジョージはじっとぼくを見つめながら、耳を傾けてくれた。それが嬉しかった。『そうか、私の写真が君の人生を変えてしまったんだんだね……』『いや、そういうわけではないんですが……大きなきっかけとなりました』『で、後悔しているかい?』初老に入ろうとするジョージの目の奥が、優しく笑っていた。人生はからくりに満ちている。日々の暮らしの中で、無数の人々とすれ違いながら、私たちは出会うことがない。その根源的な悲しみは、言いかえれば、人と人とが出会う限りない不思議さに通じている。」(p.144〜145)

「一人だったことは、危険と背中合わせのスリルと、たくさんの人々との出会いを与え続けてくれた。その日その日の決断が、まるで台本のない物語を生きるように新しい出来事を展開させた。それは実に不思議なことでもあった。バスを一台乗り遅れることで、全く違う体験が待っているということ。人生とは、人の出会いとはつきつめればそういうことなのだろうが、旅はその姿をはっきりと見せてくれた。」(p.179〜180)

「『いいか、ナオコ、これがぼくの短いアドバイスだよ。寒いことが、人の気持ちを暖めるんだ。離れていることが、人と人とを近づけるんだ。』」(p.187)

「何という多彩な人生なのだろう。誰もが、何かを成し遂げようとする人生を生きるのに対し、ビルはただ在るがままの人生を生きてきた。それは、自分が生まれもった川の流れの中で生きてゆくということなのだろうか。ビルは、いつかこんなふうにも言っていたからだ。『誰だってはじめはそうやって生きてゆくんだと思う。ただみんな、驚くほど早い年齢でその流れを捨て、岸にたどり着こうとしてしまう』」(p.191)

「世界が明日終わりになろうとも、私は今日リンゴの木を植える……ビルの存在は、人生を肯定してゆこうという意味をいつもぼくに問いかけてくる。」(p.194)

「ぼくは、狩猟民の心とは一体何なのだろうかと、ずっと考え続けていた。自然保護とか、動物愛護という言葉には何も魅かれたことはなかったが、狩猟民の持つ自然との関わりの中には、ひとつの大切な答えがあるような気がしていた。(中略)私たちが日々生きてゆくということは、誰を犠牲にして自分自身が生きのびるのかという、終わりのない日々の選択である。生命体の本質は、他者を殺して生きることにあるからだ。近代社会の中では見えにくいその約束を、最もストレートに受けとめなければならないのが狩猟民である。約束とは、言いかえれば血の匂いであり、悲しみという言葉に置きかえてもよい。そして、その悲しみの中から生まれたものが古代からの神話なのだろう。動物たちに対する償いと儀式を通し、その霊をなぐさめ、いつかまた戻ってきて、ふたたび犠牲になってくれることを祈るのだ。つまり、この世の掟であるその無言の悲しみに、もし私たちが耳をすますことができなければ、たとえ一生野山を歩きまわろうとも、机の上で考え続けても、人間と自然の関わりを本当に理解することはできないのではないだろうか。人は、その土地に生きる他者の生命を奪い、その血を自分の中にとり入れることで、より深く大地と連なることができる。そして、その行為をやめたとき、人の心はその自然から本質的には離れてゆくのかもしれない。」(p.198〜200)

「心地よい極北の風に吹かれながら、いつか読んだ本の一節を思い出していた。『……すべての物質は化石であり、その昔はただ一度きりの昔ではない。風がすっぽり体をつつむ時、それは古い物語が吹いてきたのだと思えばいい。風こそは信じがたいほどやわらかい真の化石なのだから……』」(p.207)

「自分の持ち時間が限られていることを本当に理解した時、それは生きる大きなパワーに転化する可能性を秘めていた。」(p.212)

「英語で”it made my day”という言い方がある。つまり、そのわずかなことで気持ちが膨らみ、一日が満たされてしまう。人間の心とはそういうものかもしれない。遠い昔に会った誰かが、自分を懐かしがっていてくれる。それは何と幸福なことだろう。」(p.216〜217)

「もう何人もの知り合いのブッシュ・パイロットが死んでいた。彼らの多くは本当に腕のいいパイロットだった。しかし、この土地では、腕の良さが事故を避けられるとは限らない。彼らは毎日のようにアラスカの自然の中で飛び続けているのである。たった一枚の悪いカードをいつ引いてしまうのか、ただそれだけのような気もする。遅いか早いか、悲しいけれどもそんな気がする。なぜならば、その悪いカードこそが、アラスカのブッシュ・パイロットがどこかでこの土地に魅きつけられているものなのだ。」(p.231)

「私たちが生きることができるのは、過去でも未来でもなく、ただ今しかないのだと。」(p.247)

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