長い旅の途上
星野道夫文春文庫

『長い旅の途上』 星野道夫(文春文庫)

「あなたの子供は、あなたの子供ではない。彼等は、人生そのものの息子であり、娘である。彼等はあなたを通じてくるが、あなたからくるのではない。彼等はあなたとともにいるが、あなたに屈しない。あなたは彼等に愛情を与えてもよいが、あなたの考えを与えてはいけない。何故なら、彼等の心は、あなたが訪ねてみることもできない、夢の中で訪ねてみることもできない、あしたの家に住んでいるからだ……」(p10)

「それなのに、僕は泣き叫ぶ息子を見つめながら、“この子は一人で生きていくんだな”とぼんやり考えている。たとえ親であっても、子どもの心の痛みさえ本当に分かち合うことはできないのではないか。ただひとつできることは、いつまでも見守ってあげるということだけだ。その限界を知ったとき、なぜかたまらなく子どもが愛おしくなってくる」(p12)

「ぼく自身も、これまで原野を歩く中で、何度母ムースに威嚇を受けただろう。それはどの生きものも持つ、子どもを守ろうとする本能的な行動なのだ。頭では分かっていたそのことが、今はもう少し、親のムースの立場になって理解することができる。自分がいた場所を少し移動してみると、今まで見えなかったことが見えてくるものだ」(p12)

「過去とか未来とかは、私たちが勝手に作り上げた幻想で、本当はそんな時間など存在しないのかもしれない。そして人間という生きものは、その幻想から悲しいくらい離れることができない」(p13)

「日々の暮らしのなかで、“今、この瞬間”とは何なのだろう。ふと考えると、自分にとって、それは“自然”という言葉に行き着いてゆく。目に見える世界だけではない。“内なる自然”との出会いである。何も生み出すことのない、ただ流れてゆく時を、取り戻すということである」(p14)

「若き日の冒険を求め、アラスカへと飛び立ったシリアに、そんな時代が待っていようとか想像もできなかっただろう。彼女はよく言っていたものだ。
Life is what happens to you while you are making other plans.(人生とは、何かを計画しているときに起きてしまう別の出来事のこと)と。」(p18)

「早春の北極圏は、毎年違う川沿いの残雪や水位の状況でセスナがどこに着陸できるかもわからなかったが、誰もそんなことは心配していなかった。シリアもジニーも、何が待っているかわからないアラスカの自然の中で生きてきた。大切なことは、出発することだった。」(p19〜20)

「ビルはこんなふうに子ども時代を回想している。『私は子どもの頃に手にした動物の本をすべて記憶している。野生動物の世界……それが私の生きてゆきたい場所だった。けれども、子ども心にもった最初の違和感は、絵本の中の動物と現実の野生動物の世界のギャップだった。私は自分の絵の中ではその隔たりをなくそうとした。子どもたちが私の絵で知った動物たちと実際に出会った時、ああ、やっぱりと、古い友だちとめぐり会ったような親しみを感じさせてあげたかった。つまりそれはどういうことかというと、私は膨大な時間を自分が描くやせIC動物の観察に費やした……そして絵を学ぶかわりに、動物や鳥や植物のことを学ぶのに時間をかけたのである……』」(p.27)

「秋のマッキンレー山の麓でハイイログマの親仔を観察した日のこと、オオカミの群れと出会った日のこと……人気のない資料室でその思い出を読んでいると、ビル・ベリィが遠い日の昔話を聞かせてくれているような気がした。思わず目を止めた美しい冬景色の森の絵のわきには、短く、「シリアの家の前で」と記されていた。僕はこの連載をビルのスケッチと共にできることが本当に嬉しかった。『ビルがもし生きていたら、あなたといい友だちになったと思うわ』と、リズがよく言っていたからだ。生前会うことができなかったのに、今、アラスカの自然を一緒に語り合っているような不思議な気がするのである」(p.28)

「南東アラスカの太古の森、悠久な時を刻む氷河の流れ、夏になるとこの海にかえってくるクジラたち……アラスカの美しい自然は、さまざまな人間の物語があるからこそ、より深い輝きを秘めている。母親のエスターも、息子のウィリーも、時代を超えて、同じ旅をしているのだと思った。きっと、人はいつも、それぞれの光を捜し求める長い旅の途上なのだ」(p37)

「人が旅をして、新しい土地の風景を自分のものにするためには、誰かが介在する必要があるのではないだろうか。どれだけ多くの国にでかけても、地球を何周しようと、私たちは世界の広さをそれだけでは感じ得ない。が、誰かと出会い、その人間を好きになったとき、風景は、はじめて広がりと深さを持ってくる」(p.38)

「ふと、今は亡き作曲家の武満徹の言葉を思いだしていた。それは僕がとても好きな言葉だった。『この世界を、もうどうしようもなくなっているのに、やはり肯定したい気持ちにさせられる。あきらめと希望が同居し、明るさと悲しみがいっしょくたなのに、私は明日のことを考えている』」(p.42-43)

「そこにいると、気の遠くなるような風景が自分を小さくさせるのと裏腹に、すべてのものが私に属しているような気がしてくる……なんでもない苔むした岩、ツンドラに盛りあがる小さな丘、谷を吹き抜ける極北の風……釣り師が大切な秘密の川を持つように、私もまた、その谷に同じ想いを持っている(p.68)

「アラスカに住んで二年目の春、私は初めてカリブーの季節移動をこの谷で見た。見渡す限りの白い雪原を、一本の長い線となって行進するカリブーの大群。その時私は、野生動物の本当の姿を生まれて初めて垣間見たような気がした。それはカリブーの壮観に圧倒されたからではなく、ひたすら北へ進もうとするカリブーの意思と、それを見ている人間がこの世界に自分以外誰もいないという不思議さから来たのだろう。この土地の広さを、私はその時初めて実感した。人間と関わりのない世界が持つ、生き生きとした空間の広がりにうたれていた」(p.59〜60)

「この世に生きるすべてのものは、いつか土に帰り、また旅が始まる。有機物と無機物、生きるものと死すものとの境は、一体どこにあるのだろう」(p.70)

「僕には彼の気持ちが痛いほどよくわかった。日々の暮らしに追われているとき、もうひとつ別の時間が流れている。それを悠久の自然と言っても良いだろう。そのことを知ることができたなら、いや想像でも心の片隅に意識することができたなら、それは生きてゆくうえでひとつの力になるような気がするのだ」(p.74)
「狩猟であれ、木の実の採集であれ、人はその土地に深く関わるほど、そこに生きる他者の生命を自分自身の中にとり込みたくなるのだろう。そうすることで、よりその土地に属してゆく気がするのだろう。この行為をやめたとき、人の心はその自然から離れてゆくのかもしれない。花を育てたり、野菜を作ったりすることも、それはどこかで共通する人間の行為なのだろう。」(p.86)

「長く、きびしい冬があるのはいいことだ。もし冬がなければ、春の訪れや、太陽の沈まぬ夏、そして美しい極北の秋にこれほど感謝することはできないだろう。もし一年中花が咲いているなら、人々はこれほど強い花に対する想いを持てないだろう。雪どけと共にいっせいに花が咲き始めるのは、長い冬の間、植物たちは雪の下ですっかり準備をととのえていたからではないか。そして人の心もまた、暗黒の冬に、花々への想いをたっぷりめぐらせているような気がする。
めぐりくる季節で、ただ無窮の彼方へ流れゆく時に、私たちはふと立ち止まることができる。その季節の色に、私たちはたった一回の生命を生きていることを教えられるのだ」(p93-94)

「自分が東京で暮らしているこの瞬間に、同じ日本のどこかでヒグマが呼吸している。そのことがとても不思議でならなかった頃があった。考えてみれば当たり前のことなのに、まだ子どもだった僕にとって、それは世界からのひとつの呼びかけだったのだろう。そしてそのことが、自然を意識する、最初のきっかけとなった」(p.105)

「どこにいようと、すべてのものに平等に同じ時が流れている。その事実は、考えてみると、限りなく深遠なことのような気がしてくる」(p.105)

「アラスカの原野をさまようカリブーの旅に、僕は魅かれ続けていた。それはいつも、空間の広がりと、自然が人間のためでも誰のためでもなく、それ自身の存在のために息づいている世界を実感させた。この壮大な旅を地球上に残せるかどうか、人間は最後の試験を受けさせられているのかもしれない。いつかカリブーの旅がこの原野から消えたとき、アラスカの自然は大きく変わってゆくのだろう」(p.108〜109)

「ある雪の夜、ストーブの火を囲みながら、僕は彼の語る自然観に耳を傾けていた。『動物の脳というのは、きっと気の遠くなるような時間をかけて書かれた一冊の本なのだと思う。その中には、これまでその種が生きてきた何万年、何億年という歴史がすべて入っているんだ。もちろん、人間のことだってどこかに書かれているだろう、ずっと関わってきたんだからね……つまり、自然破壊が進み、生物の種が少しずつ消えてゆくということは、人間が自分たちのことを知りうる図書館から、一冊ずつ本を失くしてゆくことなんだ……』」(p.120〜121)

「私たち人間を含めた、目の前にあるすべてのものの存在は、はるかな時を超え、今ここにある。生物の種に秘められた世界を想うとき、太古の住居跡にテントをはったと知るとき、忘れていたある連続性を感じることができる。かすかな風が吹いてくるのは、そんな時でもある」(p.121)

「私たちは、二つの時間を持って生きている。カレンダーや時計の針に刻まれる慌ただしい日常と、もう一つは漠然とした生命の時間である。すべてのものに、平等に同じ時間が流れていること……その不思議さが、私たちにもう一つの時間を気付かせ、日々の暮らしにはるかな視点を与えてくれるような気がする」(p.142)

「いつもいつも、遅く生まれすぎたと思っていた。かつてアメリカの大平原を埋め尽くしていたバファローは消え、それと共に生きていたアメリカインディアンも大地との関わりを失い、あらゆる大いなる風景は伝説と化していった。人間は二十一世紀を迎えようとしているのである。が、今私の目の前を、カリブーの大群が何千年前と変わりなく旅を続けているのを見て、何かに間に合ったような気がしたのである」(p.162)

「私は自然保護とか動物愛護という言葉に魅かれたことはなかったが、狩猟民の持つ自然観の中に大切ななにかがあるような気がしていた。
私たちが生きていくということは、誰を犠牲にして自分が生き延びるか、という日々の選択である。生命体の本質とは他者を殺して食べるということにあるからだ。それは近代社会が忘れていった血のにおいであり、悲しみという言葉に置き換えてもいい。その悲しみをストレートに受け止めなければならないのが狩猟民なのだ。人々は自らが殺した生き物たちの霊を慰め、再び戻ってきて犠牲になってくれることを祈る」(p.165)

「われわれの生活の中で大切な環境のひとつは、人間をとりまく生物の多様性であると僕はつねづね思っている。彼らの存在は、われわれ自身をほっとさせ、そしてなにより僕たちが何なのか教えてくれるような気がする」(p211〜212)

「『子どもの頃、おばあさんとブルーベリーを摘みに行った時のこと。私はひとつひとつの実を摘むのに疲れてしまい、いっぱい実がついている枝をそのまま折って、おばあさんに持っていったの。その時、こんなことを言われたのを覚えている。“ブルーベリーの実はもうそこにはできないよ。そしてお前の運も悪くなる”』」(p.294)

※「長い旅の途上」は星野道夫氏の遺稿集として編集されたものであり、その意図にそって、既刊のものと内容・文体において重複する文章も収録しています。「旅をする木」の抜き出しと重複する部分があります。


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