「草の花」
福永武彦/新潮文庫


【現時点で、生涯のマイベスト本。きっとこの先も。あらためてちゃんとまとめたい。】

『僕の精神が生きている限りは、僕という人格は僕のものだよ。』(p15)

『肉体は泯びる*さ、そんなことは分かっている。分かっているからこそ、僕は僕の精神を大事にしたいのだ』(p15)
*「ほろびる」

『しかし僕は僕の感受性を殺してしまった。感受性、というより僕は自分の魂を殺してしまった。僕は君が羨ましいよ(そうして、実に暗い顔をした)』(p16)

『僕が非常識なことは分かっている、しかし僕の体のことは僕に任せたまえ』(p19)

『怒鳴りたいときには怒鳴った方がいい、それが精神の衛生というものさ。泣きたい時には泣く、笑いたいときには笑う、それが自然だよ。ところが僕等は、奇妙に感情を抑えつけることが美徳だと、思い違って教育されてきたのだ。そりゃ何も、理性を無視しても構わないと僕だって言いやしないよ、が、思い返してみると、泣きたいときにも泣かなかった、怒りたいときにも怒らなかったということで、どんなにか僕なんか損したことだろうと思うよ。生きるということは、自己を表現することだ、自己を燃焼することだ、精いっぱい生きるためには、自分の感情生活も惜しみなく燃焼させなくちゃね』(p26-27)

『そんなに死にたくない命じゃないよ』(p35)

『僕は芸術家になりたいと思ったことがある、が、若いときは誰だってそんなことを考えるのじゃないか。それに僕は、ものを書かないでも、物を見ることによって芸術家でありたいと願った。或いは、生きることが芸術でありたいと願った。生きるということは、その人間の固有の表現だからね。で、僕はそのように生きたのだ』(p35-36)

『人生は彼が生きたその一日一日と共に終わって行くのだ。未来というものはない、死があるばかりだ、死は一切の終わりだ。現在というものはない、……そう、多くの場合に現在さえもないのだ。そこには過去があるばかりだ。それは勿論本当の生き方じゃあるまい、今日の日を生きなくて何を生きるというのだ。しかし人間は多く、過去によって生きている、過去がその人間を決定してしまっているのだ。生きるのではなく、生きたのだ。死は単なるしるしにすぎないよ』(p36)

『しかし今、むかし生きたようには生きていないのだ』(p36)

『病気なんて問題じゃないよ、生きるってことはまったく別のことだ、それは一種の陶酔なのだね、自分の内部にあるありとあらゆるもの、理性も感情も知識も情熱も、全てが燃え滾って充ち溢れるようなもの、それが生きるということだ。考えてみると、僕はもう久しくそうした恍惚感を感じない』(p37)

『つまりそういうことがなくなってから、僕はも死んでいたのも同然なのだ、今更、肉体の死に何の意味もないさ』(p37)

『失敗でない人生なんてものは、そうそうないよ』(p38)

「人は全て死ぬだろうし、僕もまたそのうちに死ぬだろう。そんなことは初めから分かっている。ただ、人はそれがいつであるのか予め知ることが出来ないから、安んじて日々の生活の中に、それが生きていることだと暁ることもなしに、空しく月日を送っていくのだ。不確かな未来は…(中略)…恐らくは極めて短いのだ」(p52)

「僕は決して死を懼れていたわけではない、――いや、全然恐怖がなかったと言えば嘘になるだろうが、僕の不安を主として形成していたものは、死の恐怖よりも寧ろ生への不満だった」(p55)

『余計なことだ。僕の苦しみは、僕のものだ』(p95)

『本当の友情というのは、相手の魂が深い谷底の泉のように、その人間の内部で眠っている、その泉を見つけだしてやることだ、それを汲み取ることだ。それは普通に、理解するという言葉の表すものとは全く別の、もっと神秘的な、魂の共鳴のようなものだ。僕は藤木にそれを求めているんだ、それが本当の友情だと思うんだ』(p96)

「そうした空想は、果たしてphysiqueではないのだろうか。藤木と一緒には風呂へも入れないというような僕のはにかみかた、それはphysiqueではないのだろうか」(p98)

『僕が生きているのは、この愛のためなんだ、観念的でもいい、夢を見ているのでもいい、ただ咎めないでほしい』(p120)

『昔、僕は死ぬのが恐ろしかった。喪いたくないものが沢山あった。愛とか、幸福とか、青春とか、野心とかそういうものだね。だから死にたくなかったのだ。今はもうこの自我の他に喪うべき何ものもない。そしてこの自我という奴が、僕の最も嫌いな代物だ。』(p254)


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