「小さいことばを歌う場所」
糸井重里/ほぼ日ブックス


見えないものとか、
聞こえない声だとか、
あえて言ってないこととか、
うまく言えないままのこととか、
そういうことのほうが、
ずっと多いのだということを
ぼくたちは忘れそうになる。
(p10)


「愛しているのに、愛してくれない」と考えがちな人は、
基本的に間違っている。
つまり、その人は、
「愛する」ことはもともと難しいものだ、
と知らないのだろう。
(p.24)


「自分たちはいいことをしてる」と思っていると、
絶対にろくなことはありません。
「いいことをしてない人」に強く働きかけようとしたり、
いいことをしているのだから、と
図々しく声高になったりしやすくなります。
(p.27)


「ないほうがいい」と、
その規則がなくなる日を祈るような気持ちで、
作られる規則でなきゃ、ほんとはダメだ。
(p.53)


「自分でわかった」ということは、
ほんとうにたいしたことなのだと思う。
(p.106)


謙虚である、身を低くする、ということは、
だいたいモラルとして語られることが多いのですが、
ぼくは、それだけではないと思っています。
「身を低く」して世界を見ると、よく見えるのです。
「謙虚に」耳をかたむけると、よく聞こえるのです。
「身を低く」は、顔を上げる子どもの視線なのです。
これは、ほんとうによく見えるんだと、ぼくは断言します。
(p.132)


「断る理由をうまく言えなくても、断っていい」んです。
提案する側が強引に、
「なぜ断るのですか。その理由を言ってください」と
相手を泣かせるくらいに詰め寄ったとしても、
「なぜだかわかりませんが、お断りします」と、
提案された側は、言ってもいいのです。
そうでなかったら、「うまく言えない気持ち」は、
なかったことにされちゃうからです。

ゲームのなかの取引だって、
プロポーズだって、M&Aだって、買い物だって、
「なんだか知らないけどイヤン」と言っていい!
これはとても大事なことだと、僕は思うのです。
そうでないと、「肉体的な力ずく」ばかりでなく、
「言論的な力ずく」に、負けちゃうでしょう。
(p.152)


原爆が落とされたおかげで戦争が終わった、
などという理屈が、
ちょっとでも正しく聞こえたとしたら、
「それはもう、とてもおかしいことなんだよ」と、
ぼくは言いたい。
いや、仮にその理屈が正しいとしたって、
ぼくは正しくない側にいるつもりだ。
(p.179)


憶えていようと思ったわけでもないのに、
忘れないことは、いっぱいある。
なんでも、
こんなに憶えているものなんだと知っていたら、
もっと丁寧に生きてこられたのかもしれない。

知らなかったのだ。
思いでなんてものは、びゅんびゅんと、
一瞬の景色として後ろへ後ろへと飛んでいって、
二度と出会うことのない幻だと思っていたのだ。

子どもが、小学生くらいのときに、
こんな話をしてやれればよかったなぁ、と思った。
いま見ている景色は、
ぜんぶ、後で思い出すものなんだよ、と。
(p.219)


+++ もどる +++