「逆説的生き方のすすめ」
ひろさちや実業の日本社

「満員電車の中で、脚を踏まれた。踏まれるたびに、『この野郎』と言って怒らずに、ほとけさまだったらどうされるか。(中略)相手は、何もこの私に恨みがあって踏んづけるんじゃないんだ。そのようにおおらかに考え、ほとけさんだったらどうされるか。(中略)そのような仏教があってもいいんじゃないのでしょうか。ほとけさんらしく生きてみよう。そういう仏教があってもいいんではないか、と思ったわけです。」(P24〜25)

「お大師さんの心は、庶民の心であります。この点はいくら力説しても足りることはありません。そのお大師さんが、庶民にあの難しい印を結べなんてことは、言われないに違いない。ではお大師さんは私たちに何を教えられたのかと考えると、それは『あなたがたは、ほとけの顔をしなさい』という教えなのです。『ほとけさまらしい顔をしてごらん』ということです。これを和顔といいます。」(P34)

「ほとけさまの言葉だから、サンスクリットのままであらわそうというのが、真言のもともとの性質であります。しかし、私たちの日常生活では、何も真言を唱えなくてもいい。それよりももっと素晴らしい真言があると思います。
それは何かと言えば、『やさしい言葉』だと私は思います。相手に対して慰めたり、いたわったりする言葉、やさしい言葉をかける、『愛語』がそれではないでしょうか。」(P37)

「『焼かれたんでもない、焼いたんでもない、あれは焼けたんだ』(中略)仏教の物事の解決の仕方は、みんなそこにあります。自分の心の持ちようを変えてこそ、変わっていく場合が多い。もちろん、全部が全部ではありません。相手の力を変えないとどうしても解決できない問題もあります。しかし、わたしたちの悩みの大部分は、全部ものの見方を変えることで解決できる。それが仏教の教えなのです。」(P47)

(良寛さんの詩)
「花は無心に蝶を招き
蝶は無心に花に尋ぬ
花開くとき 蝶来たり
蝶来るとき 花開く」(P52)

「何事にもこだわらない、とらわれない、という無心はやはり禅であり、悟りの世界と言ってもよいでしょう。良寛さんは次のようなことを言っています。『しかし、災難に逢時節には、災難に逢がよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。是ハこれ災難をのがるヽ妙法にて候』」(P65)

「どちらかでなければならないのであれば、人間は迷いはしません。したがって、迷っているということは、たいていの場合、その問題がどちらでもいいからなのです。(中略)迷っていること自体、どちらでもいいことを暗示しています。」(P71)

「私たちはたまに他人と対立し、争うことがあります。どう考えても相手に非があり悪いのですが、我慢に我慢を重ねている、そういう時があります。当然、落ち着いてはいられません。顔を見ればむしゃくしゃするし、夜床に入っても心の中で相手をなじり、あげつらってみても、ちっとも落ち着きません。自分が正しいと思えば思うほど、イライラがつのり、眠ることさえできなくなります。
仏教では、こうした感情を『阿修羅の正義』と言っています。阿修羅は本来正義の神でしたが、彼が自分の正義にこだわるあまり、ついに神々の世界から追放され、魔類にされてしまいます。実は、ここに仏教の特色ある考え方がよく出ています。つまり、仏教では『正義にこだわってはいけない!』とわたしたちに教えてくれます。」(P74)

「仏教ではいろんな観点から『こだわるな』と教えていますが、釈迦は『法句経』のなかでこう言われています。『ただ非難されるだけの人も、ただ称讃されるだけの人も、過去、現在、未来にない』非難と称賛にこだわってはいけない、それが釈迦の教えです。(中略)わたしたち凡人は、ほんのちょっとでもおだてられると、すぐに調子に乗って天狗になってしまいます。そうかと思えば、ちょっとしたけなしにあってもすぐに意気消沈してしまいます。それではわたしたちは他人に動かされる奴隷でしかありません。私たちは何事にもこだわらず、しっかりと主体性をもっていなければなりません。主体性を持たないまま、他人の声にこだわってはいけない、というのが釈迦の教えです。」(P78)


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